松坂牛のすき焼き(2020)農林水産省
「松阪」というと、多くの人が高級な牛肉を連想するというくらい、有名な「松阪牛(まつさかうし)」。そのはじまりは江戸時代(1603‑1867)にまで遡り、明治時代(1868‑1912)には既にその名が全国に知られていたと言います。そんな、古くから美食家を唸らせてきたブランド牛の魅力を探るため、松阪牛を育てている町、大紀町を訪れました。
大紀町の秋の風景(2020)農林水産省
愛情たっぷりに育てられる気性の穏やかな牛たち
「いい牛ってのは、背中の幅があって、肉が付いているからお尻の骨もでっぱってなくて。この間の「松阪肉牛共進会」に出した牛は、振袖を着せて絨毯の上を歩かせたのさ。普通ならまっすぐ歩くことだって難しいけど、この子は大人しくてね」
目を細めながら、まるで我が子の自慢でもするかのように牛について語るのは、七保牛を育てて55年という西村節生さん。話に出てきた「松阪肉牛共進会(以下、共進会)」というのは、毎年1度、松阪牛の美しさや肉のつき方を競う審査会のことで、2019年の大会では、西村さんが育てたメス牛「いつこ」号が優秀賞1席、つまり最も優れた牛として評価されました。
優秀賞1席に選ばれた「いつこ」(2020)農林水産省
西村節生さんといつこ(2020)農林水産省
ちなみに、松阪牛は全てがメス。肉としてはメスの方がやわらかく美味しいということもありますが、松阪ではもともと米作りの際に、気性が穏やかで言うことを聞くメス牛を使っていたことが関係しています。西洋の食事が入ってきた明治時代には、農耕用の牛を肥育して家畜商に買ってもらい、東海道(514 km)を歩かせて東京に持っていったのだそう。大人しく利口な牛でなければ、長距離を歩かせることも難しかったのかもしれません。
松坂牛(2020)農林水産省
牛舎におじゃますると、黒毛の牛たちは1頭ずつ区切られた空間にいて、鳴くこともなく大人しく過ごしていました。しかし西村さんが入っていくと「撫でて」と頭を出してせがみ、西村さんもそれに応えるように、声をかけてやさしく撫でてやります。その様子からも、日頃から愛情込めて育てているということが伝わります。
松坂牛の肥育小屋(2020)農林水産省
「この子たちは角が上に向かず、横にまっすぐ伸びとるやろ。それは、仔牛の時に長いこと母親のお乳を飲んでいたってこと。そうすると大人しい牛に育つ。生まれて3ヶ月くらいのうちに人に撫でられながら育った子も、穏やかな性格になるんだわ」
この地域では通常、生まれて9ヶ月くらいの仔牛を買って、3年ほど肥育する。そうやって一定期間かわいがった牛が、肉牛として売られていくのは寂しくないのだろうか。素朴な疑問を投げかけると「そりゃあ、寂しいさ」と西村さんは切なく笑います。
肥育飼料(2020)農林水産省
生産技術を共有し、高め合っていくという伝統
牛の育て方は、大枠は決まっているものの、餌の量やタイミングは農家ごとに少しずつ違うと西村さんは言います。そして、美味しい肉にするには、餌の選び方とやり方が重要だそです。
「餌は、主に藁と濃厚飼料と水。牛の胃袋の中でそれらが混ざり合って発酵することで肉が育っていくから、藁の質が悪ければ微生物が育たないんだわ。あとは、多少のストレスを与えないと、肉にサシが入らない。だから、一定時期に餌を制限して調整する必要が出てくる。欲しいものを与え過ぎてしまうと肉に脂を貯めなくなるし、脂がつき過ぎても餌を食べなくなってしまう。その加減が難しくて」
松坂牛の肥育小屋(2020)農林水産省
経験値での絶妙な餌の調整など丹精込めて世話をして、特に美しく育った牛が共進会に出品されます。その評価基準は、肉の厚みやハリ、おごろ毛(モグラの毛)と呼ばれる柔らかく密集した毛並みなど。通常、肉の競りは、脇腹のところを切って中のサシを確認できる状態でかけられるのに対して、松阪の競りは、昔から生きている状態で行われるため、いい肉かどうかは外見のみで判断されます。
松坂牛の肥育小屋(2020)農林水産省
「肉の量は大体わかるけれど、サシがどのくらい入っているかは、私たちにもわからない。だから、あの牛はどんな肉だったか、ということは肉屋さんから必ず教えてもらっていて、よくないところがあれば、何が足りないのか考える。七保地区の部会でも、頻繁に集まっては生産技術の情報を共有するんだわ。共進会ではライバルだけど、共に生産技術を高めた方が地域として成長できるからね」
西村節生さん(右)と西田裕哉 さん(2020)農林水産省
西村さんに聞けば、共進会自体も、松阪の地域全体でいい牛を育てていこう、という想いではじまったものなのだそう。松阪牛が、日本が誇るブランド牛にまで成長している鍵は、七保地区をはじめとする松阪の地域の、共に高め合おうとする拓かれた向上心にあったのかもしれません。
松坂牛と新鮮な卵(2020)農林水産省
暮らしを体験しながらいただく松阪牛のすきやき
大紀町には、そんな松阪牛を「すき焼き体験」という形で食べることができる場所があります。それは、この町で生まれ育った瀬古悦生さんと奥さまの由紀子さんが営む、体験民宿「大紀町日本一のふるさと村」。ここで提供しているのは、すき焼きを食べるだけではなく、畑から野菜を収穫したり、釜戸でご飯を炊いたり、田舎の暮らしの体験と共に松阪牛を使った絶品すき焼きを味わうことができるプログラムです。
神の口延命地蔵(2020)農林水産省
清らかな水(2020)農林水産省
最初に行うのは、ご飯を炊くための水汲み。この地域では、不老長寿の水としてよく知られる湧き水を使います。お水をいただく前には、お地蔵さんに手を合わせ、自然の恵みに感謝します。
野菜の収穫(2020)農林水産省
新鮮な野菜(2020)農林水産省
原木椎茸(2020)農林水産省
次は、野菜の収穫をしに畑に向かいます。長ネギに大根、白菜、ほうれん草、菊菜(春菊)、原木栽培の椎茸など、季節ごとに収穫できる野菜は、常に8種類ほど。「農薬を使っていないから虫食いもたくさん。でも、美味しい証拠よね」と由紀子さんはお茶目に笑います。自家栽培だから野菜もたっぷり。これが、ここのすき焼きの流儀です。
かまどに火をつける(2020)農林水産省
かまどで炊くご飯の湯気(2020)農林水産省
釜戸ではご飯を炊く準備がはじまります。現代の生活では目にすることがなくなった釜戸を使っての炊飯は、日本人でもなかなかできない体験。羽釜をセットし薪をくべていくと、パチパチと薪が弾ける心地よい音が。今の暮らしにはなくなってしまった生活の音に、どこか心が躍ります。
「釜戸の火は、最初は弱く、次第に強くなっていきます。それが、ご飯を炊くには丁度いい。よく〝初めちょろちょろ中ぱっぱ〟っていうでしょ。火を手動で調整しなくても、薪が勝手にやってくれるんです」
松坂牛のすき焼き(2020)農林水産省
あっという間にご飯もふっくらと炊き上がり、いよいよすき焼きづくりがはじまります。「松阪牛のようないいお肉は、まずは焼肉で食べていただきたいんです」と言って、手際よくサッとお肉を焼いてくださる由紀子さん。熱々をいただけば、口の中でスーッととろけて無くなってしまうのだから、驚いてしまいます。
新鮮なたまご(2020)農林水産省
松坂牛のすき焼き(2020)農林水産省
焼肉の感動も冷めやらぬまま、ジュワーっという音とともに鍋は一気にすき焼きモードです。先程収穫した野菜も大胆に投入されます。地元の新鮮な生卵にくぐらせながらいただいていると、「最後に卵かけご飯にするのも美味しいわよ!」と由紀子さんのアドバイス。そして、後半にはお餅も入って豪華です。
松坂牛のすき焼き(2020)農林水産省
「この地域は餅まきっていう風習があって、神社の行事があると手作りの餅を撒くの。お正月には厄年の人が餅をついて撒くと厄落としになるって言われていて。ここでも12月1月には餅つきをするんです」
クツクツと鍋が煮立つ音を聴きながら、そんな地域の風習を教えてもらうのもいいひとときです。
松坂牛のすき焼き体験(2020)農林水産省
ここ数年は、熊野古道伊勢路を歩いて来る人やトレイルランニングを目的に日本の山々を走る人など、海外から大紀町を訪れる人々も増えているのだそうです。
「ここ最近はいろいろな国からお客さまがいらっしゃるので、知らない国のお話を聞けるのが嬉しくて。翻訳機を使うので、緊張することなくお話しできていいですね。海外の方がいらしたら、その国の料理を一緒に作らせていただくんです。そうすると、お互いの食文化をシェアし合えるでしょ!」
瀬古悦夫さん(右)と由紀子さん(2020)農林水産省
瀬古さんご夫妻も、ここでの出会いを心から楽しんでいる様子。だから、初めて訪れるこの場所も、まるで親戚の家のように温かく感じられ、リラックスして過ごすことができるのでしょう。
その土地のおいしいものを存分に味わうには、そこの空気をたっぷりと吸い込み、人々の暮らしも感じてこそ。松阪牛の美味しさも、〝暮らし〟の中でいただくと一味ちがうかもしれません。
協力:
西村節生氏
大紀町日本一のふるさと村
写真: 阿部裕介(YARD)
執筆 : 内海織加
編集:林田沙織
制作: Skyrocket 株式会社