分離派会館

The Secession shortly after completion, postcard, dated June 2, 1899(1899)Secession

1897 年春に設立されたオーストリア造形芸術家協会、通称「ウィーン分離派」は、自分たちの作品を真の意味で外部の世界に公開できるよう、新しく展示施設を建てました。建物を設計したのはヨゼフ マリア オルブリッヒです。下シレジア出身のこの建築家は、1890 年からウィーンで暮らしていました。

Building of the Secession, Getreidemarkt(1903)Secession

当時 30 歳だったオルブリッヒは、この分離派会館を設計したことで一躍有名な建築家となります。1899 年、ドイツの都市ダルムシュタットのマティルデンヘーエ(マチルダの丘)に「ダルムシュタット芸術家村」を建設する計画の責任者としてオルブリッヒが任命されました。彼は数年間、この場所で大いに活躍しました。

First draft for an exhibition building at the Wollzeile, the facade on the side of the ring road(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

オルブリッヒは、分離派が結成される 1897 年 3 月よりも前から、この新しい造形芸術家協会の建物の計画を立て始めていました。建設予定地は、現在のシュトゥーベンリングとヴォルツァイレが交わる角地で、斜め向かいには王立芸術産業博物館がありました。

First draft for an exhibition house of the Association of Visual Artists Vienna Secession(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

オルブリッヒのデザインには、同じ頃オットー ワーグナーがウィーン「シュタットバーン」(市街鉄道)の駅舎として設計した建物といくつもの類似点があります。リング通りで存在感を出すために、分離派の建物の入口には高さ 17 メートルほどの塔を建てる予定になっていました。

Version of the first draft(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

このデザインでは、入口のニッチ(壁龕)上部を飾る枠の部分に月桂樹の葉のモチーフが用いられています。オルブリッヒは金属素材を使った自立型構造にするつもりでいました。また、金箔を施して目立たせる意図があったようです。

Draft for a temporary entrance to the Secession(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

ウィーンのプラーター遊園地で執り行われる記念式典用にウィーン パビリオンのデザイン コンペティションが開催されたとき、オルブリッヒは同じような構造の作品をエントリーしています。当時、皇帝フランツ ヨーゼフ 1 世の在位 50 周年を祝してウィーンの街全体に数多くの恒久的建築物が建設されており、パビリオン建設計画もその一環でした。

Plan for the construction of the Secession, design of the surrounding space(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

分離派会館の建設予定地に対して陸軍省から反対意見が出たことから、1897 年秋、カールスプラッツにほど近いナッシュマルクトの一角にある別の場所が新たに指定されました。すぐ近くには、由緒ある「Akademie der bildenden Künste(美術アカデミー)」もありました。

Building of the Secession, Sketch for the second draft(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

建設場所の変更に合わせてオルブリッヒがすぐに変更したデザインは、1897 年 9 月に承認されました。当初、入口のニッチの装飾にする予定だった月桂樹の葉のモチーフを使うアイデアは、ドーム部分に採用されています。

Sketch, Autumn(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

オルブリッヒが建築上のディテールをいくつも書き込んでいる 1 枚の素案は、彼が考え付いた素晴らしいアイデアを示す最初の証拠だと言えるでしょう。近くにあった有名なカールス教会とそのドームも、彼のデザインのヒントとなったのかもしれません。

Plan for the construction of the Secession, Cross section through the entrance hall(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

オルブリッヒは、建物の主要な 2 か所を設計しました。一方は、重厚なブロックと支柱を配し、月桂冠のドームを頂いた堂々としたエントランス ホールです。彫刻を思わせるその一風変わった外観は、巨大なモニュメントのようにも見えます。

Entrance Secession(1899)Secession

このエントランスのデザインには、建築上の主張が反映されています。美術評論家ルートヴィヒ ヘヴェジィの言葉「Der Zeit ihre Kunst. Der Kunst ihre Freiheit(時代には芸術を、芸術には自由を)」が入口上部の目立つ場所に掲げられ、政治的に重要なメッセージとなりました。

Plan for the construction of the Secession, longitudinal section(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

その一方、オルブリッヒが設計した建物の背面は、もっと簡素で機能的なスタイルでした。通路全体に渡されたガラス屋根は特に産業建築を思わせるもので、一般市民にとっては斬新なデザインであり、中には拒否反応を示す人もいました。

Plan for the construction of the Secession, entrance level(1897) - 作者: Joseph M. OlbrichSecession

展示ホールはこのガラス屋根が唯一の採光手段で、展示作品の邪魔にならないよう、壁には窓はひとつも設置されませんでした。このシンプルで機能性の高いホールをデザインしたオルブリッヒを、近代的展示空間(いわゆる「ホワイト キューブ」)の生みの親と言う人もいるほどです。

Dance of the Wreath-Bearing Maidens(1898) - 作者: Koloman MoserSecession

建物の背面は、小さな像が並んだフリーズ(帯状の壁画)で飾られました。ズグラッフィートという技法を使って作られたこのフリーズには、花冠を手にして並ぶ乙女たちの姿が描かれていました。この壁画はコロマン モーザーがデザインしたもので、同じく彼が制作したフクロウのレリーフは建物側面の装飾として何度か登場しています。

Foyer with the rose window "Archangel of the art" by Koloman Moser, postcard(1898)Secession

コロマン モーザーは、エントランス ホールを照らす色鮮やかな大きなバラ窓もデザインしました。残念ながら、この窓は後年に取り壊されてしまい、建物背面を飾った乙女たちのフリーズも保管されませんでした。

Foyer after the remodelling by Josef Hoffmann(1902)Secession

1899 年にオルブリッヒがダルムシュタット芸術家村の建設に招聘された後は、ヨーゼフ ホフマンが分離派の中心的デザイナーになりました。彼は 1902 年にエントランス ホールのデザインを変更しています。ホフマンはモーザーとともに、分離派展の展示責任者を務めました。

Ver Sacrum-Room at the II. Exhibition(1898)Secession

建物正面の反対側にある「Ver Sacrum」の部屋のデザインも、ホフマンが担当しました。優美な曲線を描く調度品や扉の枠には、まだアールヌーボーの影響が見られますが、その後間もなく、ホフマンは直線的な幾何学模様のデザインを好むようになりました。

„Das Heim der Wiener ’Sezession’“, in: „Ueber Land und Meer“, 1898, N. 13.(1898)Secession

分離派会館が財政面で苦労しなかったことは、近代的スポンサー制度の成功例と見なされています。建物の建設には下オーストリア州も援助していますが、最も多額の資金を提供したのは実業家のカール ヴィトゲンシュタインでした。さらには、オルブリッヒを含め分離派のメンバー全員が、自分たちの報酬を放棄しました。

Colored postcard, building of the Secession(1898)Secession

その新奇な外観と、象徴主義を誇示するような印象から、分離派会館はすぐに激しい批判を受けることになります。溶鉱炉と温室をくっつけた建物だとか、アッシリア人の高台の避難所だとか、イスラムの救世主「マハディ」の墓だなどと言われ、揶揄されました。

Colored postcard, building of the Secession(1901)Secession

非難の的になると同時に称賛の的にもなったのは、ひときわ目立つ月桂樹のドームでした。鍛鉄で作られたおよそ 3,000 枚の月桂樹の葉と 700 個の実に金メッキが施されたこのドームのエキゾチックな外観は、ウィーン市民にとっては見慣れないものだったのです。

提供: 全展示アイテム
ストーリーによっては独立した第三者が作成した場合があり、必ずしも下記のコンテンツ提供機関の見解を表すものではありません。
もっと見る
関連するテーマ
Klimt vs. Klimt
From penniless unknown to the famous creator of The Kiss, get to know the contradictory life of Gustav Klimt
テーマを見る

デザイン に興味をお持ちですか?

パーソナライズされた Culture Weekly で最新情報を入手しましょう

これで準備完了です。

最初の Culture Weekly が今週届きます。

Google アプリ