EDITORIAL FEATURE

工芸復活ものがたり

    

江戸から明治に変わる文明開化によって、日本の工芸を取り巻く環境も大きく変化しました。全国に名をとどろかせ普及したブランド品、常滑焼、瀬戸焼、有田焼のやきものや、輪島塗りなどの漆器、西陣など織物を除けば、暮らしに使う道具のほとんどはそれぞれの地域でその土地の素材によってつくられ、その土地で消費されてきました。しかし明治時代以降、鉄道など交通網や情報網の発達によって腕のよい職人や素材は地域間を移動し、良質の工芸品は、東京だけでなく全国に行き渡るようになりました。国の大切な産業と位置づけられたものは輸出され、ヨーロッパやアメリカ大陸にも渡っていきました。

こうして工芸品は世界経済の表舞台に上がった一方で、世界的な不況の打撃を受けたり、次々と誕生する量産可能な素材との競争を強いられたりするなど、時代の荒波を受けることにもなりました。新素材との競争に敗れ、あるいは社会の変化によって不要とされた数多くの工芸品が消えていったのです。

薩摩切子(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

地域のアイデンティティとしての工芸

しかし近年は、各地で生まれ育った工芸を地域のシンボルやアイデンティティとして見直し、途絶えたものを復活させる動きも出てきました。

その一つが「薩摩切子」です。ハイカラだった幕末の薩摩藩主・島津斉彬が奨励した切子でしたが、その技術は忘れ去られていました。しかし1985年、復興の気運が高まり、鹿児島市に薩摩ガラス工芸が設立され、復活の物語が始まります。技術者たちが文献資料の調査と現存品の実測を行い、実物がないものは写真を見て型を作り、形やカットのバランスを見ながら、繊細なカットを再現する方法や道具を考え、試行錯誤を繰り返しました。中でも困難だったのは「薩摩の紅硝子」と珍重された紅色の再現です。安定した色ができるまで数年かかり、他に藍、紫、緑を加えて4色の薩摩切子の復元にも成功します。文献に記述がありながら現存品がなかった金赤と黄色も2年の歳月を経て実現、2005年には島津斉彬ゆかりの島津紫も加わりました。

明治の開国によって、海外に出た工芸品も多数あります。その一つである「水口細工」は、現在の滋賀県甲賀市水口町(当時の水口藩)で、ツヅラフジのつるを編んで作られていました。籠などの編み目の美しさや軽さが人気を呼び、明治時代にはウィーン万博にも出品。海外からの発注が多かったものの、手間がかかる割に低賃金だったこともあり、1970年にはその製造が途絶えていました。しかし2000年、地元の有志によって残された製品の分析や文献の解読、職人の遺族への聞き取りなどをしながら、9年ほどかけて再現に成功しました。 

水口細工《編む》(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

あるいは京都の「マドレー染」。布の上に染料を混ぜたのりを重ねて転写する染色技法が明治時代以後に生まれました。「墨流し染」を源流とし、後に糊流し染と称される「改良流し染」に改良を加ええて生まれた技法で、昭和時代にも人気を集めました。後継者が亡くなり、1990年代には途絶えてした技術でしたが近年、京都女子大学が研究テーマとして取り組み、後継者たちによって再現されています。

マドレー染 《孔雀》(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

第二次世界大戦も、大きな影を落としています。大被害を受けた沖縄では、戦争により「芭蕉布(ばじょうふ)」の生産が一時途絶えました。芭蕉布は、糸芭蕉の繊維から織られます。織る前に綛を精練する煮綛(にーがしー)は、王朝時代から士族の衣装とされ、布状になってから精錬されたものは庶民の夏衣などに愛用されていました。それも戦後まもなく再興され、新たな産業として注目されています。

芭蕉布(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

同じく沖縄の「琉球張子」。それは旧暦5月4日の祭りの玩具市に並べられ、子の成長と出世を願った親がもとめた縁起物でもありました。しかし明治以降、工業製のおもちゃに座を奪われ、後継者不足によって衰退していました。近年では、古い資料などを参考に新たな趣向の琉球張子をつくる若者も登場し、若者層の支持も集めています。

琉球張子《ウッチリクブサー(起き上がり小法師)》(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

工芸を支える工芸品たち

日本の工芸がいま直面する大きな問題は、後継者の不足、現代の生活に合わせにくいこと、そしてよい素材や道具が手に入りにくくなっていることです。長い年月をかけて育てられた自然や動物の素材を入手し、手で加工される刷毛や筆、炭、竹細工、刃物などの道具はそれ自体が工芸品でもあります。これらがなくてはよい製品をつくることができないものが多い。けれどもその事実は一般の人にはあまり知られていません。

目に見えにくいこの分野でも、技術を伝承すべく多くの人の力で復活されたものがあります。その一つが玉鋼(たまはがね)です。切れ味が鋭く折れにくい「日本刀」は、この玉鋼を素材にしています。それは毎回土で炉を築き、木炭と砂鉄を交互に投入しながら三昼夜焼く「たたら製鉄」という特殊な方法から生まれます。第二次世界大戦後にその技術は一度途絶えたものの、大勢の尽力で島根県奥出雲町にたたら製鉄のための施設「日刀保たたら」ができ、古くからの運営組織が復活しました。

玉鋼(京都女子大学 生活デザイン研究所より)

見直されつつある素材もあります。鳥取県の米子から境港までつづく弓ケ浜で栽培されている「伯州綿(はくしゅうめん)」。やわらかく質の良いこの綿を用いて、江戸時代から農家の婦人たちが美しい浜弓絣を織り、それは縁起物として重宝されてきました。第二次世界大戦後は一度途絶えましたが、1950年代から復活されました。

弓浜絣 《機織り》(鳥取県)

いずれの工芸品も、その素材や道具も含めて一個人や小さなグループの熱い思いから再興はスタートします。後に伝えていくためにも、よい素材・道具・よいつくり手を大切にすることは重要ですが、そのために価値を理解し、購入して大切に使っていく使い手やファンが必要。それは今も昔も変わらぬ課題なのです。

さらなる日本の伝統工芸の世界をこちらからお楽しみください。

文章:坂井基樹

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