明治二十二年に筑豊興業鉄道株式会社で、若松、直方、開通
同 二十八年 飯塚、碓井、三十年四月 九州鉄道株式会社
三十一年 大隈、丗四年 上山田、 天道、長尾(桂川)
三十五年 (山野、貨車)(三六年)田川線 四十四年 伊田線 鉄道は日進月歩枝をのばす、石炭運送の川船船頭は 失業者急増 廿八年頃より(舟多くしてヤマにのりあげる、)ものが続いた、もとより体力強健な男が多くヤマのゲサイニンになれこむのも早かった、
舟頭のグチ言
ウーム オカジョウキ―メ いよいよおいらの飯 茶椀を叩きつぶした。おとされた
明治丗一年春 嘉麻川 芳雄鉄橋上を通る オモチヤの様な汽カンシヤ 八屯ツミの貨車十二、三台 飯塚駅よりの緩坂を青イキ吐息で進行していた、
シンチュウのストンガップだけピカピカ光っていた、