明治中期 豊前 会社の喧嘩 1 同胞あいばむ無恨の血闘
明治時代 ヤマ人が二人以上集まると炉辺談義にあらずとも、この話題に花が咲いていた 大納屋同志の勢力争いであったらしい 数百名が三日間も乱闘が続き死傷三十九名と云う
お互に個人の怨みはあるまいが親分児分、兄弟分の因縁か命を泡の如くにしての血闘であったらしい、 男の意地を立て通すとは、ちょいと勇ましいが 深考すると、判断に苦しむ、昔のヤマ人は、喧嘩は男の花と思うていたのであろう、尤も男にハクがつくからでもあった、 闘鶏のシヤモの様にケリ合う、勝負はトニカク、カオヤクになれる事に専念していた。 当時(明治三十年)代でも、大飲酒し大酩酊(酔)うて殺傷沙汰を起しても罪は軽いと大人は言うていた、