ピルマンは、最初、画家であった祖父の弟子、ダニエル・サラバ(1666—1748)に習い、ヴァトーやブーシェに連なるロココ様式の風俗画を制作。その後、数年間、ゴブラン織り工場でテキスタイルの図案を手がけた後、ポルトガル、スペインの両国でロココ風絵画とシノワズリー装飾の分野で活躍した。
ポルトガル王の専属画家の地位を断ったピルマンは、続いてロンドンで約10年間、風景画に取り組むと共に、幻想画を多く制作している。1761年以降、広くヨーロッパ各国で活発に活動した。
1775年以降、それまでの作品を特徴づけていたシノワズリー趣味が影を潜め、ダイナミックで劇的な自然描写への傾向が強まっていく。本作品も、激しい雨と荒れ狂う海を舞台に、劇的な身振りの人物を点景として配置することで、圧倒的な自然の力を表現しており、ロココ風の繊細な美から距離をおいた造形感覚を感じさせる作品となっている。
ピルマンの2番目の妻アン・アランを含む多くの版画家が彼の作品の版画化に取り組み、1767年と72年には、それぞれ130点と120点から成る版画集も出版されている。