福岡藩を聞いた黒田長政(くろだながまさ)の実父黒田如水(じょすい)(俗名孝高(よしたか))。如水は、当初、播磨(はりま)国御着(ごちゃく)城(現兵庫県姫路市)の小寺政職(こでらまさもと)に仕えていたが、織田信長(おだのぶなが)の勢力が中国地方に波及するようになると、政職に勧めて信長に通じ、信長の許に自ら使いした。そして、中国攻めの大将として羽柴秀吉(はしばひでよし)(後の豊臣(とよとみ)秀吉)が播磨に出陣すると自己の居城である姫路城を秀吉に提供し、以降、秀吉の軍師として各地の合戦に従軍した。ここに掲げる二通の書状は、秀吉が中国攻めに出陣する前後に相次いで発給されたものである。ともに秀吉の自筆であり、秀吉の初期の手跡(しゅせき)として貴重である。
下掲の文書は、秀吉が中国地方に出陣するに先立って黒田如水に送った自筆書状である。秀吉は弟秀長(ひでなが)と同様に心安く思っていることを伝え、さらに自分を憎むものは如水も憎むであろうと、両者一心同体であることを強調している。秀吉が出陣を前にして、如水に多大な期待をかけていたことが文面によく表われている。秀吉は、この10年後、九州平定の帰途、博多を訪れ、戦乱で荒廃した博多の復興を命じ、その都市計画は太閤町割り(たいこうまちわり)と呼ばれ、福岡に大きな足跡を残している。
釈文:
なをゝゝ、其方と
我ら間からのきハ、よ
そより人とさけ
すミもあるましく
候間、なに事をもそれへ
まかせ申候ても、よそより
のひたちあるましくと、人も
はやミおよひ候と存候、
我らにくミ申物ハ、其方
までにくミ申事あるへく候、
其心へ候て、やうしんと
あるへく候、さいゝゝ ハねんころニ
わもされす候間、ついてを
もて、ねんころニ申入候、此文ミ
ゑもすましく候間、さけす
ミにて御よミあるへく候、以上
内々の御状うけ給候、
いまニはしめさる
と申なから、御懇之
たん、せひ尓をよ
はす候、其方の
きハ、我らおとゝの
小一郎めとうせん
に心やすく存候
間、なに事を
ミな〱(くりかえし)申とも、 其方ちきたんの もて、せうし御さ はきあるへく候、 」 此くにニおいてハ、 せしよからハ取分御両 人の御ちさうの やうに申なし候 まヽ、其方も御ゆ たん候てハ、いかゝに候 間、御たいくつ なく、せし御心かけ候て、 御ちさうあるへく候、 御状のおもて一々心 ゑ存候、かしく、 七月廿三日 (切封墨引) より (くわ) 小口口ん ちくせん まいる御返事