富士山を描いた文晁の作品は多い。本作品は、富士山と筑波山を左右に配し、中央に隅田川の雄大な姿をあらわしたものである。人々の生活の場である隅田川から展望できる富士と筑波は『万葉集』の昔から関東の二大名山とされている。文晁はこれら江戸の人々に親しまれた風景を俯瞰的にとらえ、広大な画面を構成しながら、雲の間から隅田川周辺を巧みに表現している。細かな描写により、待乳山(まつちやま)聖天をはじめとする実在の場所とともに、船遊びをする人々などを活き活きと描き出しているが、決して実景そのままではなく、実景と理想的な描写の巧みな融合がはかられている。これは、文晁が1804年から主君である松平定信の命を受けておこなった、中世の大和絵の名作である《石山寺縁起絵巻》の第六・七巻の補作によって学んだ、伝統的な大和絵の手法をふまえたものであるとの指摘もある。
なお、画面左下隅の款記(かんき)の書体から、文政年間(1818-30)の作であると考えられている。