能の小鼓の家に生まれる。狩野芳崖、続いて橋本雅邦に師事。1889年新設の東京美術学校に入学し、後に助教授となるが、98年岡倉天心校長の辞職に殉じ退職。横山大観らと〈日本美術院〉創設に参加した。さらに1914年〈再興院展〉の創設にも参加。卓抜した技術と古典への深い造詣に裏打ちされた作品は次世代に大きな影響を与えた。
向かって右の屏風に、張り出した岩と垂れ下がる紅葉した枝、左の屏風に小さな岩と数羽の鳥。大きな画面にそれだけが描かれた大胆な構図の作品です。右隻の岩の陰影表現には、観山がイギリス留学を通して学んだ西洋美術の影響が見られます。一方、左隻に広くとった余白は、日本美術の伝統的な空間表現に倣っています。立体感のある右隻との対比によって画面に奥行きが生まれ、秋が深まる中、海鳥が遠い彼方へと向かう様が見事に描かれています。また、金地を背景にした装飾的な画面は江戸時代の琳派からの影響を思わせます。このように観山は明治時代末から大正初期にかけて、西洋の写実的な表現をふまえつつ、日本の古典をより深く研究し、情趣豊かな屏風を多く制作しました。円熟期の観山芸術の魅力がよく表れている作品です。
(寸法)
各168.0×363.0cm