偶然にも「広渡」「巌斐湖秀」を名乗る人物が2人いたらしい。ひとりは天明4年(1784)に亡くなった長崎の御用絵師、もうひとり(1766~1820)も長崎出身で京都をへて江戸に来た絵師だが、彼らの関係はよくわかっていないが、本図の筆者は、その作風から後者と考えられている。
一見、典型的な南蘋風花鳥画のように見えるが、ずぶとい筆致で描かれた波浪や岩肌、そして動物たちのあまりにもとぼけた表情は、むしろ四条派風の柔らかでユーモラスな作風に通じるものがある。宋紫石以後の「唐画」の和様化ぶりを示す逸品である。款記は「巖斐」、 白文方印「広渡儀印」 白文方印「巖斐」 を捺す。