博多は、古来より対外交流の窓口として栄え、中世においても国際貿易と国内流通の結節点として重要な位置を占めていた。博多に聞かれた禅寺はその拠点となり、禅僧は外交官的役割を期待された。
ここに紹介する墨蹟は、「遣唐使の駅」と称され室町幕府の外交出先機関の役割を果たしていた博多妙楽寺(みょうらくじ)の禅僧の宿願によってわが国にもたらされたもので、日中文化交流の一端を示す貴重な墨蹟である。
この墨蹟は、虚堂智愚(きどうちぐ)が虎丘山(くきゅうざん)の境致(きょうち)を七言詩に詠んだ虎丘十詠に付された13篇の跋文の最後に位置する。内容もさることながら、伝来の経緯も注目される。虎丘十詠と跋文は、中国において長い流転の末、妙楽寺にもたらされたものである。要した歳月はおよそ250年。妙楽寺七世恒中宗立(こうちゅうそうりゅう)は中国に渡り先師虚堂の墨蹟を手に入れ、本国へ持ち帰ることを念願した。しかし、果たせず、次いで同八世石隠宗璵(せきいんそうよ)もその志を受け継ぐが、高齢のため叶わず、日本からの留学僧に託して妙楽寺へ届けられることを祈った。それから約100年を経た成化13(文明(ぶんめい)9・1477)年に書かれたのが、この跋文である。虎丘十詠の成立が宋・宝慶年間(1225~7)、最初の跋文が書かれたのが、元・至元25(1288)年であるから、虎丘十詠が詠まれておよそ250年を経過して、中国雲南省へ流転し、ここでようやく雪谷宗戒の計らいにより、日本へ送る手立てが講じられたのである。
戦国時代の初頭、妙楽寺に将来された虎丘十詠は、その後、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に福岡藩主黒田長政(くろだながまさ)により召し上げられ、徳川秀忠(とくがわひでただ)、徳川家光(いえみつ)、酒井忠清(さかいただきよ)へと伝来し、現在はMOA美術館の所蔵となっている。13篇あった跋文のうち、現存するのは7篇で、福岡市博物館の他、出光美術館、MOA美術館、大和文華館、個人に分蔵されている。
釈文:
拝読
虚堂老祖所作虎丘十詠、古今之絶
唱也、大元時、江南諸尊宿輩
皆羨跋于後、誠法門至宝、日
東師恒中立翁・石隠璵翁二師
念、先阻遺墨欲寄帰本国
伝而盛事耳、今経八九十年、
流落於滇、不果所願、
大明成化丁酉、遠孫比丘宗戒偶々獲
一賭、方知先輩用心如此、所以
古人片言隻字莫非金玉、未敢
軽棄也、一日
武定公子省斎郭君帰
金台之、便順携此巻、還
京、待日本朝
觀僧詣
闕将、此巻付之、持帰本国妙楽
寺、以了先師之願、敬跋于
後巻末、以俟、
滇城五華六十七歳遠孫
比丘雪谷宗戒謹識、
(白文方印)(朱文方印)(朱文方印)
【ID Number1983B00034】参考文献:『福岡市博物館名品図録』