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太左衛門連秀は立花山在城時には家老に列せられていた。しかし、文禄五年(一五九六)の知行宛行では、太左衛門連秀が一〇〇〇石、摂津守連貞が一三〇〇石と、摂津家の連貞の石高が上回った。摂津家の台頭を見て取ることができる。この宛行状は、慶長の役から帰朝後のものと考えられるが、連貞に対し二〇〇石が加増され、知行高は都合一五〇〇石となった。
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