本名は杉田秀夫。日本美術学校で絵画を学ぶ。16歳から美術評論を始める。1936年フォトグラムの作品集《眠りの理由》を刊行し、この時から“瑛九”のペンネームを使用。51年に〈デモクラート美術家協会〉を結成。戦後の日本の美術において、先駆的役割を果たした。
瑛九は風景や人物などの具象的な油彩画から出発し、具象と抽象を往復しながら、幻想的な表現を含む多くの実験的な作品を制作しました。そして、最後にたどりついた表現方法は、点描による抽象絵画でした。この作品は、48歳で没する前年に描かれたものです。1940年代後半から自由な発想で有機的な形体を主体とする作品を制作していましたが、やがて57年頃にはエアー・コンプレッサーを使って絵具を吹き付ける作品を制作するようになります。その翌年から、多くの丸や細胞のような図柄が画面に現れ始め、それらはやがて、この作品のような点描へと発展していきました。晩年の瑛九は、執ようなまでにこの表現を追いつづけました。