その後、慶長年間(1596年)に入ると、城下の士族の内職として椀などの日常食器の生産が盛んになった。慶長5年(1600年)、それまでの川連漆器の庇護者である小野寺氏は最上氏に滅ぼされた。水戸から佐竹義宣が秋田藩主として入部した後は、藩の庇護をうけながらも、商人らが漆器産業の育成に努めた。特に、万治年問(1658-1661年)には佐藤四郎右衛門が川連漆器の庇護者となり、文化・文政(1804-1830年)になると豪商高橋利兵衛は、藩庁の許可を得て京都から材料を仕入れ、販路を他国にも拓くなど藩の植産政策のもと椀、繕,重箱など幅広い漆器が作られるようになった。