いわゆる「南蛮寺」とは、織田信長の理解のもとに、四条坊門姥柳(うばやなぎ)町(中京区蛸薬師通室町西入ル)に、イエズス会が京都布教の拠点として建立した和風建築の聖堂で、正式には「被昇天の聖母教会」と称した。天正4年(1576)に献堂式をおこない、以後新しい京名所として親しまれてきた。本図では南蛮風の帽子を売る店が描かれるなど、南蛮寺周辺の賑わいを伝えている。しかし、この南蛮寺は天正15年に豊臣秀吉が出した宣教師追放令によって破却されたとも言われている。「元秀」印から、筆者は狩野永徳の弟で、信長や秀吉の画事をつとめた宗秀(1551~1601年)と推測される。西洋人宣教師の姿を描いた絵画作品としては最古級のもので、近世初期の日本に実際に立てられたキリスト教会の姿を伝える視覚資料としても極めて貴重。