漢学者・倉田幽谷(ゆうこく)の次男として生まれる。画家の倉田白羊は弟。遠縁の浅井忠(あさいちゅう)に絵画を学び、越ヶ谷高等小学校で代用教員を勤めながら、周辺の風景を描いた。浅井を頼って上京、1891年に〈明治美術会〉会員となるが、23歳で夭折。残された数少ない素描や水彩から、迫真の描写力がうかがえる。
この作品を、はじめはモノクロ写真だと思った方もいるでしょう。庭先で農作業をする人、農具、縁側の子どもたち、家屋の隅々までが、コンテによって写真と間違えるほど正確に描かれ、手前の人物はこちらに飛び出してくるかのような立体感があります。同じく浅井忠の門下生であった都鳥英喜(ととりえいき)の写真帖から、弟次郎が描いた素描とよく似た写真が見つかっているため、この作品も写真をもとに描いたと思われます。弟次郎は驚くほど熱心に絵画を勉強したと言われ、写真の模写もおそらく修業の一環でしたが、まるで科学の力に人間の描写がどこまで対抗できるのかという挑戦をしているようです。しかし、活躍を期待されながら、病により急逝。その才能を高く評価していた浅井は、亡骸の手を取って泣き、早すぎる死を悼んだといいます。弟の白羊は兄の遺志を継いで画家になりました。