【亜欧堂田善】1748〜1822 もともとは永田善吉と言って、陸奥国岩瀬郡(今の福島県)須賀川で紺屋(もしくは商家)を営んでました。伝えるところによると、この善吉は寝食よりも絵を描くことが好きで、その才能を領主の松平定信に認められ、谷文晁の弟子として取り立てられ、「亜欧堂田善」という名前を定信から与えられた、とのこと。松平定信はかねてより銅版画の国産化を願ってましたが、司馬江漢の銅版術については「細密ならず」と落胆し、かわりに田善の技量に期待し物心両面からバックアップしたと思われます。期待に違わず田善は、世界地図や医学書で堅実な描画力を発揮する一方、風景画では従来の浮世絵や江漢の銅版画とは異なり、「画家目線」を活かした現実感あふれる作品を多数描きました。精度の高い線描集積と、幾何学的に構築された空間の中に、デフォルメの効いたユーモラスな点景人物を配するなど、律義さと機知に富んだその表現は、浮世版画や上方の銅版画にも影響を与えました。
大正時代に、現在の築地に移転するまでは、江戸(東京)の魚市場は日本橋にありました。現在では高速道路が上空をふさぎ、往時の面影は偲びにくいのですが、この銅版画は約200年前の喧騒ぶりを雄弁に語ってくれます。ハガキ大にも満たない小さな画面にもかかわらず、ここに集まった人々ひとりひとりのしぐさをはっきりと識別できます。田善の卓越した銅版技術が、リアリティあふれる群衆表現を可能としました。
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