東京美術学校で岡倉天心、橋本雅邦の指導を受け、後に〈日本美術院〉の創設に参加。東洋美術の伝統を踏まえながら西洋画の技法もとり入れた新技法を研究した。線描ではなく、ぼかしを用いて表現する朦朧体を経て、俵屋宗達などの古典に学んだ、均整のとれた日本的美感にあふれた近代日本画をつくりあげた。
霧深い湖上に釣り人が糸を垂れ、大小の岩のほかは墨の濃淡によって水平線が暗示されているだけです。これは、日本画の基本をなす線描や余白を否定し、ぼかしによって空気や光線の表現を追及する没線彩画を試み、西洋画に接近した時期の作品です。このような画風は、当時「朦朧体」と呼ばれました。また一方で、新しい創造のためには古画の研究が不可欠とし積極的に行っており、舟と釣り人は中国南宗時代の馬遠の作と伝えられる《寒江独釣図》を模しています。このようにこの作品は、春草の新しい創造のための実験である没線彩画と、古画の研究という二つの要素をもった興味深い作風を示しています。文字どおり朦朧と広がる湖水の情景描写の中に、彼の生涯にわたる作品に流れる静けさが独特の詩情をともなって表されています。