幼名秀蔵、後に秀麿と改名。1889年新設の東京美術学校に入り岡倉天心、橋本雅邦に師事。96年母校の助教授となるが、98年天心の辞職に殉じ退職、下村観山、菱田春草らと日本美術院創設に参加、新たな日本画の創造をめざす。天心没後の1914年日本美術院を再興、精神性の高い数々の名作を発表し、大正・昭和の日本画壇をリードした。
数々の名作を描いた大観にとっても、紀元2600年の奉祝と自らの画業50年に当る1940(昭和15)年は特別な年でした。奉祝と彩管報国を意図し、〈山に因む十題・海に因む十題〉の20点の作画に専心して「奉祝記念作品展」を開催、売上金すべてを陸海軍省に寄付するという壮挙を行いました。陸海軍省はそれぞれ2機の飛行機に「大観号」と命名し大観の報国の意に応えました。この年、大観は海国日本を意識してか、海の主題を多く取り上げています。翌春の歌会始の勅題となった「漁村の曙」にちなむ作品も含め、穏やかな明け方の海を描いた作品が繰り返し描かれ、うち1点は秩父宮家に献上されています。縦構図の特色ある本作もそのひとつで高い完成度を示しています。