戦場で立花家の一隊全員揃って着用させたものと思われ、文政五年の御道具帳には「金冑」として三百十八頭の存在が記録されている。現在は二百三十九頭が残り、桃山時代から江戸時代前期にわたって段階的に作られており、本作はそのうち最も古様なタイプで桃山時代の作と考えられる。 九州地方には、桃形兜は多数残っており、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてかなり普及していたと思われ、いち早く取り入れた南蛮文化にともなう西洋甲冑の影響をうかがわせる。
現在は残っていないが、兜の後立の筒には、裾黒で下すぼまりの幟を立てていたことが文献に記されている。