本名、重吉。若くして世を去った兄、弟次郎の遺志を継ぎ、浅井忠に師事する。1901年東京美術学校を卒業、翌年〈太平洋画会〉会員となる。07年雑誌『方寸』(ほうすん)に参加。〈院展洋画部〉脱退後、22年〈春陽会〉を結成。同年長野県上田市に転居した。写生にもとづく克明な写実的表現で農村風景などを描いた。
1922年倉田白羊は、親友山本鼎(かなえ)が設立した日本農民美術研究所を応援し、副所長兼教育部長として信州上田に転居しました。そして38年に亡くなるまで、その地で自らがめざす「如実迫真(にょじつはくしん)の態度」で、自然を凝視する厳格な造形を探り続けました。ここでは、あらゆるものが強い陽射しを浴びています。最も目をひく前景の木は、太い幹から一本一本の枝まではっきりとした陰影で肉付けされ、自然の中で存在を強烈に誇示しています。丸太の山や積みわらなども、それぞれ重厚な立体物として堂々とそびえ立っています。「何ものをも振り落とすまいと心がける」と語り、あるもの全てをないがしろにせず、それぞれが生命力を持つ存在としてとらえようとする倉田白羊の「如実迫真の態度」は、この作品にも遺憾なく発揮されています。