亜欧堂田善(またはその門人)による多くの銅版画の中で、もっとも人気を博したシリーズが、これらの小形江戸名所図。北斎・国芳などの浮世絵風景版画の構図や、上方の小型銅版画の流行に影響を与えた点でも重要な作品群で、写実性と抽象化が同居する、緩急のメリハリの利いた表現が特徴です。現在25種類の図柄が確認されていて、そのうち神戸市立博物館は19種を所蔵している。
現在の東京都港区に愛宕山という小高い山がある。今は樹木が鬱蒼と茂っていて、東京の街を一望、というわけにはいかないが、200年前はここが、神戸の諏訪山公園のような場所だった。本来は2枚一組で愛宕山から見下ろす江戸の街並みをパノラマ風に描く作品だが、本図はその右半分の風景となる。画面左には江戸湾と高輪から芝にかけての街並みがわずかに垣間見えるが、画面上部に記された説明書きから、田善はここから見下ろせる建物のひとつひとつまで細かく観察していたことがわかる。
亜欧堂田善(1748〜1822)は もともとは永田善吉と言って、陸奥国岩瀬郡(今の福島県)須賀川で紺屋(もしくは商家)を営んでいた。伝えるところによると、この善吉は寝食よりも絵を描くことが好きで、その才能を領主の松平定信に認められ、谷文晁の弟子として取り立てられ、「亜欧堂田善」という名前を定信から与えられた、とのこと。松平定信はかねてより銅版画の国産化を願っていたが、司馬江漢の銅版術については「細密ならず」と落胆し、かわりに田善の技量に期待し物心両面からバックアップしたと思われる。期待に違わず田善は、世界地図や医学書で堅実な描画力を発揮する一方、風景画では従来の浮世絵や江漢の銅版画とは異なり、「画家目線」を活かした現実感あふれる作品を多数描いた。精度の高い線描集積と、幾何学的に構築された空間の中に、デフォルメの効いたユーモラスな点景人物を配するなど、律義さと機知に富んだその表現は、浮世版画や上方の銅版画にも影響を与えた。
田善の江戸名所銅版画では最も小型のシリーズ。このシリーズで最も多く数が揃っているものは須賀川の柳沼甚五郎氏蔵のもので、25枚ある。