1870年代後半のルノワールの作品の見せる振幅は画家の模索と葛藤の証である。例えば、《ムーラン・ド・ラ・・ギャレットの舞踏会)》(1876年、オルセー美術館)に代表される、同時代のさんざめく男女の風俗を描く大作が屹立すれば、《習作(陽光の中の裸婦) 》(1875年、オルセー美術館)のごとき、印象主義の面目躍如の素早いタッチの冴えが光る一枚も顔を見せる。さらにここに挙げた《青い服を着た若い女》に至っては、抑制された色彩と安定した左右対称の構図とがあいまって、肖像画の背負う期待を裏切らない出来である。透けるような肌は細心の彩色の妙技であり、襟の白さはハイライトの効果をもたらし、黒髪と胸元のリボンが、彼女の端正な顔立ちをさらに際立たせる。
共同出資によって開催した印象派展が意に反して悪評を浴び、当てにした作品の売れ行きも芳しくない。困窮にもがくルノワールにおいて、社交界の人々からの肖像画の注文は、生活の糧を得る手堅い手段として次第に画業の大きな位置を占めていく。しかし同時にそれは、顧客の容貌や満足への従属が時に芸術的な自発性をも犠牲にせねばならぬ危険もはらみ、1780年代以降の彼の絵画制作に影を落とすこととなる。