足利尊氏が差し向けた圧倒的な反撃軍の兵力を前に、吉野朝廷では無謀にも楠木正行(くすのきまさつら)に迎撃を命じた。
父 正成(まさしげ)の辿った道を正行も選ぶ。
玉砕を決意した正行は、如意輪の過去帳に一族郎党の名を記し、壁板に一首の歌を残して出陣した。
「返らじと兼ねて思えば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」
正行は自ら敵陣に切り込んだ。四条畷(しじょうなわて)の合戦はいきなり終盤戦に突入した。
敵の大将髙師直(こうのもろなお)の直前まで迫ったが最後の一歩が踏み込めない。玉砕戦法の限界であった。
味方はほとんど討死し、全身に矢を射立てられ、もはやこれまでと弟正時と共に刺し違え自害した。
時は正平三年正月五日 正行わずか二十三歳であった。