父の橋本養邦から絵を習い、12歳から木挽町の狩野勝川院雅信に学ぶ。同門の狩野芳崖とともにフェノロサ、岡倉天心の指導を受ける。日本の伝統美術の研究の上に、西洋画の技法も取り入れた優れた作品を残し、横山大観、菱田春草らの後進の指導にも尽力した。
「長江」は長い流れの大河を意味し、中国の揚子江の別称として使われています。人物が揚子江に張り出した見晴らし台から、漁に出ている数隻の小舟を眺めている光景を描いた作品です。きびきびとした線の抑揚や墨の濃淡の妙をみせる前景の樹木や建物の表現には、狩野派の俊才であった技量の確かさと格調の高さがうかがえます。しかし、海軍省兵学寮に勤務していた頃に西洋の油彩画にも関心をよせた雅邦は、「洋画そのままを日本画に応用するのではなく、神髄を究めてから受け入れるべき」と言っており、この作品でも遠くの景色や樹木の表現などに、西洋画にみられる光や大気の捉え方がうかがえます。この作品は平成3年に、近代美術で初めて埼玉県指定有形文化財に指定されました。