普仏戦争の混乱を避け欧州に居を転々としたモネは、1871年の暮れに祖国に戻るや、パリ近郊のアリジャントゥイユを制作の地と定めた。ここでの7年間が印象主義の画家としての彼を育んだといっても過言ではない。近代化の波がいまだアクセントとして景色を彩るに留まっているこの地において、揺籃期の印象主義の記録とも言える170余りもの作品を残した。
プティ・ジュヌヴィリエの入り江は毎夏週末に開かれるヨットレースで賑わっていた。沈み行く夕日はまだ名残惜しい気な空の青さを染め、夜の装いを急がせる。水面に反射する短い夏の黄金の光は、さながら繻子織りのごとき輝きを見せる。即興的に、しかしながら細心の注意を払って運ばれた筆遣いは一秒として同じ顔を見せぬ景色を効果的に演出する。画面手前に配された二人の影は、つい今しがたまで入り江に波立てた人々の賑わいを懐かしむかのようである。
しかしモネは1878年「ささやかに暮らし、順調に仕事もやってきたこの素敵な小さな家」と呼んだアルジャントゥイユのアトリエを引き払うことを決意する。かつて画家の心を捉えたものたちは無残に変貌してしまった。近代がもたらした便利さによって人口は膨張し、都市の矛盾が覆い隠せぬほど噴出し始めたのである。それは同時に印象主義の「古典時代」の終わりを告げるものでもあった。