博多を支配した大友宗麟(おおどもそうりん)は、その支配を安定させるため中国地方の毛利氏と戦闘を繰り広げ、永禄12(1569)年に毛利氏を九州から撤退させることに成功した。そこで、大友氏は毛利氏の再来に備えて重臣の戸次鑑連(べっきあきつら)(道雪(どうせつ))を立花城督(たちばなじょうとく)として赴任させるなど、軍事体制の強化を図り、他方では毛利氏の背後を撹乱するために美作(みまさか)・備後(びんご)方面の国人(こくじん)等と結んで、東西から毛利氏を挟撃しようとする、遠交近攻の策を展開した。
下掲文書は美作国(現岡山県)の領主牧兵庫助(まきひょうごのすけ)に宗麟が出した書状である。宗麟は牧兵庫助に対し、美作方面のことについて、播磨(はりま)国(現兵庫県)から備前・美作両国(現岡山県)に勢力を持つ浦上宗景(うらかみむねかげ)と協力し対処しているとの報告を受け、さらに、隠岐(おき)に滞在する尼子勝久(あまごかつひさ)とも連携するよう命じ、来る毛利氏攻めに備えている。現代と異なり情報手段が不便な時代に、戦争を前にしてこのように広範な外交戦略が展開されていたことをよく示している。
本文書を伝えた牧氏は、江戸時代には石見津和野藩の家老となり、本文書も牧氏に伝来した。戦国時代の文書46点が一巻に成巻され、そのうち31点が大友宗麟・義統父子、およびその家臣の発給文書で占めら
れている。
釈文:
重々示給候、祝着候、殊
太刀一腰・馬一疋送給候、
喜悦候、然者、其表之儀、
浦上宗景被申談、堅固之
才覚無油断之由、預入魂候、
就中、尼子勝久隠州江
滞在無異儀之由、尤肝
要候、弥被申合、其堺
調達不可有緩之儀候、此
方行之儀、門司口・与州表
同前申付候条、勝利之趣、
従是可令注進候、仍鈍金
壱端進之候、委細猶、浦上
左京入道可申候、恐々
謹言、
六月廿七日 宗麟(花押)
牧兵庫助殿
【ID Number1996B00002】参考文献:『福岡市博物館名品図録』
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