鎌倉時代の山城鍛冶には粟田口と来の二大流派があった。来派は中期から栄え、その祖は国吉と伝えられる。その子国行から来派は盛行を極め、国行の子の国俊を始め、来国俊・来国光・来国次・了戒などの名工が輩出する。国行の作品には製作の年紀を切った作品は伝えられていないが、国俊に弘安元年(一二七八)の年紀のある太刀があるので、彼の活躍期がほぼ知られる。国宝。
105葵紋散蒔絵糸巻太刀拵が附属する。
来派は国吉を始祖とし、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて多数の名工を輩出した。国吉の子・国行は事実上の祖とされる。国行の作刀は太刀が多く、身幅は広め、刃文は直刃と丁子を主とした乱刃の両様がある。本刀はやや細身で、小乱れに丁子交じりの刃文である。三代将軍家光の娘で、尾張家二代光友(一六二五〜一七〇〇)の正室となった千代姫(一六三七〜九八)の所持した太刀で、千代姫の婚礼調度「初 音調度」とともに伝来し、一括で国宝に指定された。葵紋散蒔絵糸巻太刀拵が附属する。