大下藤次郎(1870-1911)は東京に生まれ、中丸精十郎、原田直次郎に師事した。明治30年頃までは油彩画も手がけたが、水彩による風景写生に喜びを見出し、やがて水彩画に専念するようになる。旅と自然を愛した大下は描くべき風景を求め、日本各地をはじめ、明治時代の画家としては珍しくオーストラリアにも旅行した。
明るい色彩で広い空と海が描かれた《メルボルン港》などのオーストラリア風景からは、未知の世界に触れて表現の幅が広がったことが感じられる。日本山岳会に入会した明治40年頃からは頻繁に山岳風景を描き、《檜原湖の秋》のように高原の爽やかな空気が伝わってくる、繊細な筆致の作品を生み出した。
大下藤次郎は師、原田直次郎を通じて森鷗外の知己を得、明治34年(1901)刊行の水彩画の手引書『水彩画之栞』の序文を鷗外に依頼した。明治44年(1911)、41歳で大下が没した際、鷗外は大下夫人の依頼で遺作集に掲載する年譜をまとめた。その際に目にした大下の手記を元に、彼を主人公とした短編小説「ながし」が誕生する。
多方面に才能を発揮した大下は、水彩画制作はもとより、技法書や紀行文の執筆に加え、水彩画専門誌『みづゑ』の発行、水彩画講習所の開設、さらには全国各地での講習会など、アマチュア画家に向けた普及活動にも力をつくした。