旧制熊谷中学校を卒業の後、川端画学校に学ぶ。第二次大戦中に浦和から関西に転居。戦後は抽象画に転じ、国画会展で発表。1976年から再び具象画も手がけ、抽象・具象の両方を並行して制作。司馬遼太郎『街道をゆく』の挿絵や、豪放な書でも知られた。1966年の展覧会「国画会40年の展望」に《作品1964》として発表し、後に改題した作品。大きな円と種子のような核を組み合わせた形態が三つ、せめぎあうように配置されています。スピード感のある筆あとや、傷のように生々しいペインティング・ナイフの痕跡が、その不安定な印象をさらに強め、荒々しい勢いがみなぎる構成となっています。須田は、活気にあふれた戦後の関西の美術界で多くの美術家や前衛書家から刺激を受け、50-60年代は本格的に抽象絵画に取り組みました。その作品群は観念から創られるのではなく、無垢な精神で絵筆やナイフをふるって格闘する行為、そして鮮烈な色の絵具やカンヴァスの物質感から生まれており、作者自身の熱っぽい造形観がほとばしっています。