金毘羅山(こんぴらさん)上空から鳥瞰する、19世紀始めの長崎港の景観。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋舖・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれている。
「シーボルトの絵師」として知られる川原慶賀(1786~?)は、通称を登與助、諱は種美。慶賀、聴月楼などと号す。この衝立の裏面に描かれているブロンホフ家族図には、欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」が捺される。衝立は、シーボルト事件に際して長崎奉行所が没収したという伝承がある。コック・ブロンホフは文化6年に荷倉役として来日。同10年のラッフルズによる出島奪取計画の後、英側との折衝にバタビアへ赴き、捕らえられ英国へ送られた。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に再来日。歴代商館長のなかで特に日本人との接触・交流の多い人物でもあった。図中に「De Opregte van het Opperhoofd J:Cock Blomhoff, zijn Vrouw en Kid,die in Ao1818 al hier aangekonmenzijn」(1818年この地に到着した商館長ブロンホフとその妻子の図)とある。同好の作例が日蘭両国に遺されており、さらにこの図様をアレンジした作品や版画がさかんに作られた。