後醍醐天皇の命により、幕府追討のため義貞は二万の軍勢を引き連れ鎌倉目指して関東平野を南下していた。時は1333年5月21日夜、海沿いに進み鎌倉 にある稲村ケ崎にさしかかった時の事である。海岸線は岬が波打ち際まで突き出し、ここを渡る事は不可能と誰もが思った。そこで義貞は大浪の砕ける岩頭に立 ち、腰の宝刀を高く捧げ海に向かって祈ります。
「後醍醐天皇は天照大神の末裔でありながらも、臣下の者の裏切りによって流浪しておいでです。天照大神は時に龍神の姿となって大海原に出現したと聞きま す。どうか龍神よ潮の流れを遠くに退け道を開いてくださりたまえ。」こう言って自らが持っていた黄金造りの太刀を抜いて、海中に投げ入れたのである。
すると、それまでは行き来するのも困難だった海岸線から、一斉に潮が引きはじめ広々とした砂浜が現れた。目の前に広がる光景は兵士たちの士気をあおり、軍は一丸となって鎌倉へ進撃した。
翌日新田軍の攻撃により鎌倉が炎上、北条高時以下北条一門が自決し、義貞は、幕府追討を為し遂げたのであった。