新田義貞は、後醍醐天皇から北条氏討伐の命を受け、 兵を挙げたが最初は百五十騎に過ぎなかった。
義貞は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とし、周辺の御家人も加わり数万規模に膨れ上がった。
さらに義貞は鎌倉街道を進み、分倍河原で大勝を博し、破竹の進撃を続けた。
やがて鎌倉の稲村ヶ崎で北を見上げれば山高く路けわしく、木戸を溝へ楯を並べて数万の軍勢が控へ、 南には海原の沖合に船を浮かべ横ざまに射らんと待ち構えている。
大浪の砕ける岩頭に立った義貞は腰の宝刀を取ると両手に高く捧げ、 南無八大龍神に一心不乱に念じ、黄金作りの太刀を海中に投じた。
するとたちまち満々たる海水は沖合はるかに引き去り二十余町が砂浜となり、敵船も引き潮に流され、はるか沖に漂う有様となった。
義貞はその後も進撃し北条氏を討伐、鎌倉幕府を滅ぼした。