1904年、旧制埼玉県立第一中学校を卒業。単身でシアトルに渡り、絵画を学び画家となる。特に裸婦の作品で注目された。20年夫人と共にパリに移住し、定期的に開催されるサロン・ドートンヌ等の展覧会で活躍した。故郷を離れて、一度も帰国せずにパリで没した。
この作品は、田中がパリに渡ってから3年余が経過し、制作活動も軌道に乗ってきた頃に描かれたものです。田中の作品は、制作年が不明のものが多いのですが、この作品に関しては、画面左下に「大正十三年三月於巴里 田中保」と記されているのが読みとれます。この頃、パリには諸外国から多くの芸術家たちが集まり、各種の芸術が活気に満ちていました。田中もレオナール・フジタ等とともにパリの美術界で高く評価されており、この作品を当時滞仏中の朝香宮殿下が買い上げたともいわれています。舞うようなポーズをとる裸婦が写実的に描写されているのに対し、屏風等の日本的なモチーフは装飾的に仕上げられています。こうした装飾的な手法は、画面の周囲にデザイン的に描かれた縁の部分にも見ることができます。