天心の没後9年目に描かれた肖像画。亡き師に対する畏敬と追慕の念が素直に伝わってくる。
創立25周年記念となる秋の院展に観山は《天心先生》を出品したが、翌年の関東大震災の折に損失。米国の東洋美術史家L.ウォーナーに観山自身が記念に贈ったこの画稿が東京美術学校に寄贈されたのは、没後の昭和7年(1932)のことである。虚空をにらみ想をめぐらす天心の威厳にあふれた風貌が、草稿ゆえにかえって自由な筆使いで活写されており、そこに生きてある空気の動きすら感じられる。制作当時、観山の手元には指先ほどの小さな亡き師の写真しかなく、昔の記憶を頼りにその特徴を掴んでいったという。衣裳は天心の好んだ中国の道服、机上の巻紙には天心直筆の平家物語の絵巻の草案が直接貼り付けられている。観山は、大観、春草と共に天心門下の三羽烏と呼ばれた。美術学校の基盤を築き、日本美術院を興した天心の下で日本画の革新運動を担った3人だが、その中でも観山は「天心の頭が観山の腕を動かしている」と言われるほど師の絵画理念と理想に忠実であった。(執筆者:横山りえ 出典:『芸大美術館所蔵名品展』、東京藝術大学大学美術館、1999年)