本名は杉田秀夫。日本美術学校で絵画を学ぶ。16歳から美術評論を始める。1936年フォトグラムの作品集《眠りの理由》を刊行し、この時から“瑛九”のペンネームを使用。51年に〈デモクラート美術家協会〉を結成。戦後の日本の美術において、先駆的役割を果たした。
昭和24年、瑛九は批評家で擁護者でもあった久保貞次郎から銅版画のプレス機を贈られ、その試作を始めています。翌年、浦和に移り住んだ頃には、銅版画技法のひとつであるエッチングの制作にますます熱中していきます。下絵なしに、いきなり銅板に線を描いていった瑛九の銅版画は、心に浮かんだイメージがさまざまな形や線によって表現されています。この作品は背景の大きな顔に、頭が鳥や怪物のようになった女性らしき人物を重ね合わせて描かれています。楽しげな雰囲気である一方、くり返し登場する眼球のイメージは、オペラグラスという題名のように、のぞくことへの欲望を連想させます。