左幅に白孔雀と石榴、右幅には雌雄の真孔雀と木蓮、紅梅などを描く。孔雀は富貴の象徴として好まれた画材だが、本作は江戸時代以前の孔雀図とは趣が異なる。 江戸時代、絵画界の頂点に君臨していたのは、狩野派であった。絵を学ぶものはみな、まず狩野派が確立した絵画様式を学び、狩野派の様式は江戸時代の絵画のスタンダードとなっていた。 しかし一方で、それ以前と比べて画家の数が増え、新しいタイプの絵画が数多く生まれたのも、この時代の特徴である。長崎を通じてもたらされた中国や西洋の知識は、日本の絵画に計り知れない影響を与えた。1731(享保16)年に来日した中国人画家の沈南蘋(しんなんぴん)も、日本絵画に大きな変化をもたらした。既に中国では時代遅れになりつつあった濃彩による密度の高い華やかな表現や精緻な描写は、伝統的な画法だけでは満足できなかった日本の画家たちの心をとらえ、南蘋風の絵画は長崎から上方、そして江戸へと広まりを見せた。 この《孔雀図》も、まさに沈南蘋風の花鳥図である。伊勢長島藩主で文人大名として知られた雪斎の最晩年の作である。