戦国時代の城主の夫人が元の蛇体に戻り入水したという榛名山の伝説に取材した。女性の表情に映丘独自の心理解釈が表れている。
映丘は、国学者井上道泰、民俗学者柳田国男らを兄に持つ好学的な環境の中で、幼少より歴史画を好んだ。はじめ狩野派の橋本雅邦に師事するが、大和絵を学ぶため山名貫義の門にはいる。東京美術学校を首席で卒業後同校教授となり、多くの画家を育成した。大正10年(1921)には新興大和絵会を設立、伝統を同時代に生かす新しい大和絵の創造を目指した。映丘は、古典文学や有職故実の研究を踏まえた上で、歴史風俗画に個性、内面性、写実性といった要素を取り入れた。また、映丘の真の革新性は実景描写による大和絵風景画にあるとし、そのさらなる展開を見せぬまま亡くなった事を惜しむ見方もある。《伊香保の沼》において、山や草花は実際の自然を写実的に捉えつつ、大和絵の技法により情緒的に表現されている。こうした風景に放心した女性の佇まいが呼応し、静寂さの中耽美的な雰囲気を醸し出している。映丘独自のロマンティシズムが描き出された作品である。第6回帝展出品作。(執筆者:島津京 出典:『芸大美術館所蔵名品展』、東京藝術大学大学美術館、1999年)