「聖母の画家」と呼ばれたヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベリーニは、「聖母子」を主題として、大画面の祭壇画から家庭における礼拝用の小品にいたるまで宗教画を数多く描いた。その一方で本作のような肖像画も少なからず描いている。これらの肖像画は、特定のモデルがいる人物画でありながら、同時にヴェネツィアの当時の雰囲気を反映し、彼が所属する社会や時代背景をもよく伝えている。その点で肖像画のもつ本質的な意義と特質を備えているといえよう。
本作は、黒い帽子と濃紺のダマスク織りの上衣を身につけ、官職にあることを示す赤い綬を佩びて正装する行政長官の肖像画で、斜め右側から捉えた「四分の三正面」の胸像として描かれている。ベリーニは、おそらく1480年代にはハンス・メムリンクなどの作品を知り、空あるいは無地を背景に胸の高さで切り取った胸像形式を自らのものとし、古典的な静謐さをもつ美しい小品を生み出した。1501年頃に描かれた《統領レオナルド・ロレダーノ》(ロンドン、ナショナルギャラリー)をはじめとする男性の肖像画などはその典型である。この絵はそれからなお数年を経た時期の作品で、ベリーニの祭壇画芸術の到達点ともいうべき《サン・ザッカリーア祭壇画》を完成させた直後にあたる。
この頃デューラーがある手紙の中で「きわめて高齢だが、・・・ヴェネツィアで唯一最高の画家はベリーニだ」と綴っているように、75歳を超えてなお若々しい巨匠の健筆ぶりを伝える佳品といえよう。