初代福岡藩主黒田長政(1568~1623)の甲冑姿の馬上像。長政が死去した翌年にあたる寛永(かんえい)元年の、林羅山(はやしらざん)書による長政の略伝の記載もある。長政は黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい)(1546~1604)の嫡子で、父の隠居後に豊前中津(ぶぜんなかつ)12万石余の大名となる。
秀吉(ひでよし)の死後の慶長(けいちょう)5(1600))年、天下分け目の関ケ原の合戦では、いち早く徳川家康 (とくがわいえやす)に味方し、西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)を味方につける政治工作や、戦場での活躍で東軍の勝利に貢献したため、家康から筑前(ちくぜん)国のほぼ一国を与えられ、同年12月に入国した。その後、検地など領国支配を進めるが、幕府の大名統制策、とくに御手伝い普請などに苦しんだ。しかし大坂冬の陣では江戸に留めおかれたことから徳川幕府への忠節を一層示すようになり、幕閣(ばっかく)や有力者に接近を図った。またその子で二代藩主忠之(1602~1654)の近世大名としての教育などに力をそそいだ。元和(げんな)9年、徳川秀忠の上洛のため、上京して病が重くなり、報恩寺(ほうおんじ)で死去した。死去に先立ち忠之(ただゆき)や家臣に藩の行く末を案じた遺言を数多く残している。
【ID Number1978P00096】参考文献:『福岡市博物館名品図録』