容儀を正して整然と行進する騎馬人物を含む朝鮮通信使を透視図法を採りいれて描いた風景画。このような様式は1740年代の江戸に誕生し、画中の事物が立体的に見えることから浮絵(うきえ)と呼ばれた。本図の箱書きにも「浮絵」と見える。本図は将軍の交替の際などに来日した朝鮮通信使のうち、寛延元年(1748)第10回の通信使の行列をもとにして描いていると推定される。要人とその一行が将軍への挨拶を終えて、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋(ときわばし)を渡り、本町(ほんちょう)二丁目を過ぎていく情景を描いている。
収納箱の貼紙からこの図が、徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、宝暦3年(1753)に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品であったことがわかる。小次郎の死後、宝暦4年に理性院尼から東叡山寛永寺の子院で、小次郎が葬られた凌雲院の僧正光俊に贈られ、さらに光俊から宝暦11年(1761)に延暦寺までもたらされたらしい。本図が実際の通信使の細部と異なるため、山王祭りの唐人行列と見なす意見があるが、祭りの情景だけとは言いきれず、通信使の行列が主で、それに祭りの記憶が混在して作画されていると考えられる。