天女の姿を映す水面の濁りと紫陽花はいずれ失われる美を暗示している。古画模写に励んだ春草が日本画の線を重視していた頃の作品。
岡倉天心が審査委員長をつとめた日本絵画協会第3回絵画共進会への出品作。作者によれば「美人はいつまでも美にあらず終には衰へる時がある」という考えから「天女衰相」を画想にしたもので、上の天女の美しさに比べて水面に映る姿を「衰へた穢いやうに」描いたという。紫陽花も七色にうつろい、やがては枯れてしまうという寓意を込めて添えられている。明治29年(1896)から母校の東京美術学校で教鞭をとっていた春草は、本図を学内で制作、広い教場の中に立てかけた大画面に、小柄な彼は延びあがるようにして一気に描いていったと伝わる。この作品の制作談『画界新彩』の中で春草は、日本画の線に対する批評家の無理解について非難しているが、明治31年、天心の非職に伴い本校を辞職、日本美術院創設に参加後は、線描を放棄したいわゆる「朦朧体」をはじめとする造形上の実験的な試みを次々と重ね、横山大観らと共に新たな日本画の方向を模索していくことになる。(執筆者:横山りえ 出典:『芸大美術館所蔵名品展』、東京藝術大学大学美術館、1999年)