見沼代用水は、1728年(享保13)に幕府の勘定吟味役格だった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために建設した農業灌漑用水である。江戸時代はじめ、幕府は荒川と利根川という大河川の流れをつけかえ、江戸周辺の農地開拓を進めた。その際、元々の農地への用水を確保するため、現在の埼玉県さいたま市に見沼溜井が設けられた。8代将軍徳川吉宗は、新田開発のため、見沼溜井を干拓することとし、代わりの用水路「見沼代用水」が建設された。この絵は、現在の久喜市に設けられた見沼代用水の分流箇所に築かれた「堰枠」と呼ばれる水流や水量を調整するための堰(八間堰)のようすを描いたもの。上部に土橋が架かっており、「重土橋堰枠」と呼ばれる構造となっている。江戸時代の高度な土木技術を示している。王欽古による模写。