村山槐多はある時点で、赤あるいはガランスを自分の宿命の色ときめたようである。それは比較的はやくて、あるいは画家になる決心より以前すでに意識的に選んだ色彩なのかもしれない。生理にこころよくて落ち着くというには、あまりにも攻撃的な色だからである。それは表向きは血と太陽を指向しつつ、その反面に罪とその浄化を隠した、陰陽二極をあわせもつ運命の色だったといってもいい。《尿する裸僧》の赤はみずからも炎となりつつ、汚れた自己、汚れた世界を猛火によって焼き尽くそうとしている。それにくらべると、この《自画像》の画面を支配する色彩は赤というより紫にちかい。激しく燃えさかるものは、胸中ふかくに秘すれば秘するほど、かえって色にあらわれるという風に。あるいはとおく呼応する夜の闇から浮かびあがってくるかのようだ。暮れなずむ京の空や琵琶湖上の夕暮れにあらわれる紫色。槐多がこよなく愛していた神秘をひめたこの色を、かれがその詩によくとりあげていたことが思い出される。