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晩年のピサロの制作拠点となったのは、1884年から移り住んでいたエラニー=シュル=エプトの家で、彼は林檎の果樹園に続く庭の納屋を改造したアトリエで、1903年の死の年まで制作を続けた。エラニーはパリの北西郊外約70kmのところに位置し、傍を流れるエプト川を下流に約30kmほど下ると、モネが1883年以来住んで睡蓮を描いていたジヴェルニーがある。
ピサロはエラニーの家を生活の中心に据えながらも、都会のパリにもたびたび足を運び、田園の生活と都市の生活を描き分けた。この頃の彼は、デュラン=リュエル画廊との専属契約によって定期的な個展の開催が約束されていたし、また年齢の上でも、経済的な面でも、そして技術の点においても、安定した環境と要因に恵まれていたといえる。
1900年のピサロは、前年から引き続き4月までパリで制作をして、春から初夏にかけての5〜6月にエラニーの自宅に戻って制作。夏の7〜9月にはノルマンディー海岸の避暑地ベルヌヴァルを訪れ、秋の10〜11月に再びエラニーに戻っている。
この年、エラニーで描かれた風景は春の絵が5点、秋の絵が4点あるが、この中の春と秋の1点ずつが東京富士美術館に所蔵されている。
前述のように、本作が描かれた1900年の春(5〜6月)は、エラニーの果樹園のアトリエで萌え出ずる春盛りの田園風景の制作にいそしんだ。ピサロは5月7日付の手紙の中で、エラニーの樹木の開花についての情熱的な心情を吐露している。この絵でピサロはエラニーの花咲く桃源郷を爽やかに屈託なく表現した。春のいくぶん湿気を含んだ新緑の鮮やかさや満開の林檎の花のほのぼのとした美しさを、春特有の花曇りの日差しの中に捉えようとしたのであろう。このようにピサロは、移り変わる自然の一瞬のヴィジョンをカンヴァスの上に連作として描きとどめた。同じ頃モネが、光によって変幻する色彩それ自体の変化に興味の主たる対象があったのに対して、ピサロは同じ場所のなかで視点を移動し、変化させることによって風景をさまざまな角度から切り取り、春夏秋冬の四季の変化、朝、昼、夕の一日の変化、晴れ、曇り、雨、雪の気象の変化を自在にあやつりながら、そのヴァラエティーを楽しんだのだった。

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