故国ポーランドの美術学校で絵画の基礎を学んだキスリングが初めてパリを訪れたのは1910年、彼が19歳の時だった。同級生の多くがウィーンやミュンヘンへの留学をめざしたこの時期、彼だけは師パンキエヴィッツの教えを守り、「セザンヌとルノワールの国」に向かったのである。しかし彼がパリに到着した1910年、印象派はすでに過去の存在となり、若い芸術家たちの関心はもっぱら新しい美学「キュビスム」に向けられていた。キスリングの作風も瞬く間にその影響を受けることになる。おまけに彼はパリ到着後すぐに、この美学の主導者であるピカソ、ブラックの二人と懇意になり、しばしば制作をともにする機会を持った。だが、キスリングは単なる追随者、模倣者ではなかった。ピカソと共に南仏セレで制作中、あれこれと後輩の絵に注文をつけようとするピカソに対して、キスリングは「これはあくまでも自分の絵だ」と反論する自負を持っていた。
キュビスムの最盛期に描かれたこの作品には、一方でこの画家が終生敬愛したセザンヌの影響も顕著である。瓶が載っている新聞には「GIL B」の文字が見えるが、これはこの新聞の名前「GIL BLAS(ジル・ブラス)」を意味している。この新聞は、1908年のブラックの個展の際、その展評に「キューブ」の言葉を最初に掲載したことにより、美術の歴史にその名を残している。
(出典: 名古屋市美術館展示解説カード)