パリ、モンマルトルの丘の一角に立つ歌謡酒場ラパン・アジールは、ユトリロのもっとも愛した主題の一つであった。画面左手、柵越しに見える古びた建物がそれである。この酒場は第一次世界大戦前夜の、いわゆるベル・エポック(良き時代)と呼ばれた時代のパリで多くの芸術家を集め、夜ごとにぎわいを見せたが、そこにはピカソ、モディリアーニといった画家たち、アポリネール、コクトーなどの詩人など多彩な顔ぶれがそろっていた。
この作品はいわゆるユトリロの「白の時代」と呼ばれる時期に描かれている。漆喰を思わせる厚味のある白を基調とする独特のマティエールと、遠近表現を強調した画面構成を特徴とするこの時期は、彼の20歳代後半から30歳代前半にあたり、もっとも制作意欲の充実した時期といわれている。彼の最良の作品がすべてそうであるように、そこには豊かな詩情とかすかな哀愁が漂っている。時に稚拙と見える程に重いその一筆、一筆は、孤独な画家の心の内をとつとつと我々に語りかけてくる。技術ばかりが達者な画家であれば、その仕上がりの見事さにのみ目は奪われるであろう。だがユトリロの絵では、一筆の絵の具に込められた画家の思いが、静かに我々の胸に迫る。
(出典: 名古屋市美術館展示解説カード)