吉田博は、水彩画、油彩画、木版画の各分野において特筆すべき写実の画業を示しました。また黒田清輝ひきいる新派・白馬会に抗して旧派・太平洋画会の雄としても活躍した実力作家でもあります。彼が終生一貫して追求したことは、日本の風景美、特に山岳風景美でした。本作品は彼が後半生に心血をそそいだ木版画です。制作された1926年は自摺を始めて2年目ではありましたが、合計41点が制作されました。彼の生涯の中で、1年間の制作発表としては最多の年であり充実の年でした。またこの年に生まれた次男に穂高(後年、版画家として名をなす)と命名しています。