1920年代のモダニズム(近代主義)の意識をいち早く昂揚させた新詩運動の時代から、その後につづくシュルレアリスム運動まで、戦前の名古屋はひとつの磁場を形成していた。 海外におけるシュルレアリスムの動向を紹介していた名古屋在住の詩人および評論家であ る山中散生や、前衛詩人の集まり「VOU」を主宰していた詩人の北園克衛との出会い、さ らには1937年に名古屋で巡回開催された「海外超現実主義作品展」を見て、詩人である山本悍右は、自己の進むべき道を確信したという。1938年には山中散生とともに、当地でシュ ルレアリスム詩誌『夜の噴水』を編集創刊し、自作の詩や写真を発表した。翌1939年には 坂田稔、下郷羊雄らとともに「ナゴヤ・フォトアバンガルド」を結成して、本格的に写真に 取り組む。
山本悍右は、自然形象を好んで撮影した名古屋のそのほかのメンバーとは異なり、電話器や帽子、シーツなど日常的事物を題材に、詩情あふれる映像詩を巧みに造形した。受話器だけが鳥籠の外に置かれた静物によるこの写真作品では、シュルレアリスムの常套的な 修辞を駆使して、声の不在を象徴することによって、当時の暗い言論抑圧に対する無言の 抵抗を表現している。
(出典: 『名古屋市美術館コレクション選』、1998年、p. 115.)