この作品には、構図がほぼ同じでひとまわり大きい《パリの雪景》(個人蔵)という1925年の作品が存在する。
佐伯がパリに渡ったのは23年11月。翌年の夏に里見勝蔵に連れられてヴラマンクに会うが、持参した佐伯の50号の裸婦を見たヴラマンクは「このアカデミックが!」と怒号し、1時間半に渡って怒鳴り続けたという。佐伯がヴラマンク風のフォーヴに傾倒するきっかけになった有名な事件である。
この作風の大きな転換点となった24年には、セザンヌ風の《ノートルダム寺院遠望》のような作品から、《オワーズ河周辺風景》のように色彩の混濁による重苦しさと迫力の点で、同時期のヴラマンクや、同じくヴラマンクに影響を受けていた里見の作品をも凌駕するような作品まで幅がある。そして本作品はそれらの作品の間の過渡期の作として一応位置づけられる。先に挙げた《パリ雪景》も、本作とは混じり合った色彩の深みやスピード感のある激しい筆致において著しい対照を見せ、その間の急激な才能の開花を感じさせる。しかしながら、本作は一方で、生乾きの白の上に素早く青をひいて雲間に見える青空を表現する描き方や、ペインティングナイフを多用した木々や路の表現において、25年3月の《レストラン》という作品に非常に近い描かれ方をしており、作風の推移、制作年の両面からあらためて調査し、その位置づけ、制作年を再考する必要があると考えられる。